華 瓶
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華瓶(けびょう)とは、浄い水をお供えするための水瓶です。お仏飯とともに、毎日かえます。
私達の身体は、みなそれぞれ自分の身であって、他人の身体ではありません。髪の毛一本でも、親子の間でさえ取り替えることのできない、絶対私のものです。いのちはそれぞれ、自分のいのちであって、一分一秒も人に代わってもらうことはできません。毎日自分のいのちと思って、私達は生きております。しかし、もう一歩ふみこんで考えますと、髪の毛一本といいますが、はたして本当に自分のものと言えるでしょうか。
自分で、作ったものでしょうか。
私達の身体は、三十四億という数の細胞がここにこのように集まっているそうでありますが、その中の一つの細胞でも自分で作ったものがあるでしょうか。ましてや、目も鼻も口も手も足も、自分のものといいながら、自分の作ったものでは絶対にありません。いのちは、自分のいのちであって、他人のいのちではありません。代わりがない、やり直すこともできない絶対のわがいのちであって、責任重大なわがいのちでありますが、それだけにいい加減に自分のいのちなどと普通考えているような、ちっぽけな浅はかなものではありません。そうしてみますと、このわがいのちとは、一体なんでしょうか。
自分は、自分で生きているなどといいますが、呼吸することも、食物を消化することも、いや呼吸する空気のあることも、大地があることも、太陽が照らしていることも、生きるためには不可欠なものでありながら、自分の作ったものではありません。
また、親なくしては、私達はこの世に生まれることができませんが、その親も私達に先立ってあるのです。この世へ生まれる時、自分で考え、自分で選んで、人間に生まれ、あるいは時代・所・環境を決定したわけではありません。
わがいのちと簡単に申しますが、一体これは何なのでしょうか。この私のある姿、それは無条件の宇宙一切のはたらき、絶対他力によって生かされている事実です。何か甲斐性があるように、力んでみたりしますが、何一つ甲斐性なしの私。一人一人のいのちが、かけがえのないものであるばかりでなく、無限のはたらきが、永遠のはたらきが、一人一人のいのちを通じて働きだしているのです。その生かす働きを、「仏さま」と呼ぶのです。
この私のある姿が、よくよく知られれば、私の本当のあるべき姿は、仏さまと向かい合わせの、ありのままの、素直な姿であることが知られます。
私達が生きていく上には、大切なものがたくさんありますが、その大切なものを代表して、浄い水とそして日本人の食生活には、欠かすことのできないお米を、仏さまにお供えし、無条件の大いなる働きの中に生かされている身をよろこび、敬いの心を捧げていくのです。 |
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